「いやな人というものは存在しない。その人をいやな人だと考えているあなただけが存在している」
(引用元: 陳胡痒のworld view: 本日の相場・経済オチ)
「いやな人というものは存在しない。その人をいやな人だと考えているあなただけが存在している」
Ron Wayneというのがその人で、10%株を持ったのに、創業12日目で会社に返してしまったので、リターンはゼロ。そのまま持ち続けていたら兆円規模の資産になっていた、、、という世紀のがっかり事件です。
努力があるから成果がある。努力していなくて成功するなんてありえないし、あってはならない事だと私たちは習ってきました。
深い世界の成功の定義ではそうなのでしょうけど、残念ながら現世の『いわゆる成功』ではそうではありません。努力をせずにオリンピアンになった人もいますし、生まれながらに庭から石油が出てた人もいます。楽しいだけの人生も、早くして人生を終えるべくして運命づけられた人生もあります。犠牲と成果は釣り合わないのです。
あるべき世界と現実の世界。この狭間で私たちは言いようの無い不公平感に襲われます。頑張ってもどうにもならない事があり、生まれながらに決まっている事があり、自分よりもずっといい思いをして生きているように見える人が世の中にはいるわけです。
不公平だ。その感情がだんだんと、何か自分にとって許せないものを排除したい様な、社会の秩序の為に取り除きたい様な、一見正義とも思える感情にすり替わっていきます。しかし、姿形は変わってもその根源は嫉妬です。ですが、そこに囚われた人にはそれが嫉妬であるのかどうかすらもはやわからなくなってしまっていきます。
世の中が間違えているんではなくて、犠牲と成果がバランスする、全てがフェアネスだという認識自体を疑わなければなりません。理不尽で当然、が世の常でしょう。情け容赦ない世の中を、それでもなんとかフェアネスに近づけようとしている、それが人間社会なのではないでしょうか。
そして、一生懸命正義の様なものをぶつけようと相手に対して目が離せなくなっているその時間は、あなたの限られた人生の貴重な時間なのです。
僕には「他人の失敗を願う癖」がありました。
これはかなり悪い癖なんですが、実はある言葉を貰ってから一切そう思わなくなりました。
その言葉とは、
「タイガーウッズは、他の選手がプレイするときに、”成功しろ!”と願う」
そうです。
理由は、「失敗しろ!」と思うと潜在意識の中でに失敗するというのが植え付けられるので自分のプレイのときに失敗するそうです。
だから、「他の人の成功を願っていると、自分も成功するよ!」と言うことでした。
817 名前:卵の名無しさん[] 投稿日:2012/01/04(水) 09:23:28.04 ID:oqrx/Y3U0
「あたりまえ」を「ありがとう」と言うのが感謝
「だから、なに?」を「おめでとう」と言うのが賞賛
「もう、ダメだ」を「これからだ」と言うのが希望
「なりたいな」を「なってやる」と言うのが決意
「もういいや」を「まだ待とう」と言うのが忍耐
言葉だけでも認識は変わる
手話で600語以上の単語を習得した
ココというゴリラが研究者のムーリンと
「死」について会話した内容は
次のとおりです
ムー:念を押しますよ、
このゴリラは生きているの、
それとも死んでいる?
ココ:死んでいる さようなら。
ムー:ゴリラは死ぬとき、どう感じるかしら?
--しあわせ、かなしい、それとも怖い?
ココ:眠る。
ムー:ゴリラは死ぬと、どこにいくの?
ココ:苦労のない 穴に さようなら。
ムー:いつゴリラは死ぬの?
ココ:年とり 病気で。
釈迦は、現代の宗教が説くような「私を信じなければ不幸になる。地獄に落ちる」という類の言説は一切していなかったという。釈迦は当時のバラモンや沙門たちが共有していた文化の中で生きてきたため、確かに仏教は輪廻思想から自由でないが、釈迦にとってより重要だったのは、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決だった。 苦悩は執着によって起きるということを解明し、それらは正しい行ない(八正道)を実践することによってのみ解決に至るという極めて常識的な教えを提示することだった。従って人生問題の実際的解決は、釈迦に帰依しなくても実践可能であり、釈迦は超能力者でも霊能者でも、増して「最終解脱者」でもなく、勿論「神」のような絶対者でもなかった。しかし人々のカリスマ的人物を求める煩悶は何時の時代も変わりがなく、死後の釈迦は次第に神格化される。例えば釈迦の骨が崇拝の対象となったり、釈迦の言説とされる教典が信仰の対象となったりという、釈迦が最も忌避した「執着」へ人々は回帰した。そこにあるのは「象徴(シンボル)の病」とされる。
1.いろはにほへど ちりぬるを (色は匂へど散りぬるを)A.色(しき)(=物資的現象)の花は匂うけれども散ってしまうのに
B.世の中に、楽しいこと悲しいこと、悔しいことむなしいこと、幸せな人も不幸な人も、金持ちも貧乏人も、いい思いをしている人も恵まれない人も、得するやつも損するやつも、美しいものも醜いものも、様々なものや現象や出来事があるが、これらの目に見える現象はすべて、夢のまた夢、いずれ変化し消えてなくなってしまう、むなしいものである。
2.わがよたれぞ つねならむ (我が世誰ぞ常ならむ)A.私の人生も誰も永遠でありえようか。
B.私自身もこの世の中も誰もかれもが、どんなに華やかな人生でも、どんなに悲惨な人生でも、いつかは変貌し、破壊され、消滅してしまう。すべてがもともとこの世に存在しない一瞬の幻想なのだから、
3.うゐのおくやま けふこえて (有為の奥山今日越えて)A.有為(人間の所行)の深い山を今日越えて。
B.怒りや妬み、愛も憎しみも、願望も欲望も希望も、幸福も不幸も、これらはすべて実体のない幻想にすぎない。心の奥にある、実体のないものにとらわれた煩悩を今日克服して空(くう)を悟り。
4.あさきゆめみじ ゑひもせず (浅き夢見じ酔ひもせず)A.浅はかな夢など見るまい、酔ったりもしない。
B.この人生も、この世界も、すべてが実体がない。そのようなものに夢を抱くのは愚かな煩悩である。そんな夢など見ないようにしたい。幸福や希望に酔ったりもしない。
諸君 私は仏教哲学が好きだ
諸君 私は仏教哲学が好きだ
諸君 私は仏教哲学が大好きだ
初期仏教が好きだ
説一切有部が好きだ
経量部が好きだ
唯識形象真実派が好きだ
唯識形象虚偽派が好きだ
経量行中観派が好きだ
中観自立論証派が好きだ
中観帰謬論証派が好きだ
初・中・後期 大乗仏教が好きだ
密教が好きだ
平原で 精舎で 僧院で 仏塔で 寺院で
霊鷲山で 欲界で 色界で 無色界で
三界六道 全ての世界で説かれる
ありとあらゆる仏教が大好きだ
快楽と苦行に見切りをつけて中道に
よって悟りを開いた釈尊が好きだ
深い観察と考察によって得られる智慧により
根本的な執着を滅した境地に心が躍る
諸法の存在を分析して自己認証を主張せず
外部対象を真実成立とする説一切有部が好きだ
我執にとらわれた者に、諸法の存在要素が
集合している過ぎない事を知らしめた時など
胸がすくような気持ちだった
自己認証と外部対象の両方を真実として
思い込む事により承認する経量部が好きだ
非連続の連続が特殊な発現によって成立し得る
心の連続性を解明した認識論を展開する様には
感動すら覚える
外部対象を承認せず依他起生は真実成立であると
主張する唯識学派などは もうたまらない
諸法のあり方を三つの存在様態に分類して
虚構された様態も 他そのもに依存する様態も
実体は無く 無実体こそが完全にして
円満な存在であるとして無明を薙ぎ倒すのは最高だ
自性や魂や自我をありとする哀れな外道達が
粗末な理論で健気にも立ち上がってきたものを
真実成立する法など微塵も無いと承認する
無自性論者たる 中観派論師達が
「仮にそうだと認証しても それによって生じた
矛盾をどのように 説明していただけますか?」
と木っ端微塵に粉砕したときなど絶頂すら覚える
密教が神秘体験を目的とした教えだと
勘違いする輩共に滅茶苦茶にされるのが好きだ
体験至上主義の密教行者が論理を学ばず
自らの体験のみを 絶対的な真理だと吹聴している様は
とてもとても悲しいモノだ
耳当たりの良い事だけを述べて 思考停止した
自称仏教徒の物量に殲滅されるのが好きだ
普遍性と妥当性を持たない感情のみの者に
知識は害悪だと追い回され 適当な所で
「信仰していれば救われます」などと仲裁され
地べたを這いずり回るのは屈辱の極みだ
諸君私は、理路整然とした仏教を望んでいる
諸君 このページを目にした仏教愛好者諸君
君たちは一体 何を望んでいる?
盲目的な信仰を望むか?
燦然たる智慧の集積である仏教哲学を望むか?
思惟と考察の限りを尽くし 神秘主義や
体験主義に陥らない理性ある
智慧の仏教哲学を望むか?
「哲学!!」 「哲学!!」 「哲学!!」
よろしい ならば仏教哲学だ!
我々は思惟の限りを尽くして 今まさに
振り下ろさんとする握り拳だ
だが この無明の闇の中で初劫より迷い続けた
我々に 単なる信仰などでは もはや足りぬ
大勉強だ! 一心不乱の大勉強を
我々はわずかに一個人、総勢千人にも満たない
単なる仏教哲学愛好者だ
だが諸君は一騎当千の学力を有すると
私は信頼している
ならば我らは諸君と私で
総勢100万と1人の
仏教哲学愛好者集団となる
考える事を忘却の彼方へと追いやり
眠りこけてる 思考能力を叩き起こそう
怠惰や思考停止を引きずり下ろし
眼を開けさせ思い出させよう
連中に思惟する事の重要さを思い出させてやる
連中にわれわれの理性を思い出させてやる
天と地の狭間には無明の輩では思いもよらない
智慧がある事を思い出させてやる
千人に満たない仏教哲学愛好者で
煩悩を焼き尽くしてやる
誰かにいやなことを言われると、そのいやな言葉のフレーズを何度も頭のなかで繰り返し、忘れないように記憶しなおしていないですか。
何度もその場面を思い出し、繰り返しいやなフレーズを思い出し、何度も何度もイヤな気分を感じています。
わたしの場合でも50回以上100回くらいは繰り返して思い出しているのではないかと思っています。
しかし、これは2回目からは自分で思い出しているのですね。
それに気がつくことが禅的悩み解決の第一歩だと考えています。
1回
言われただけなのに
100回
言われた気分。
残りの99回は
自分で再生ボタンを
押しているのね。